この差分プライバシーの重要な特徴は、プライバシーの安全性を数学的に保証できる点だ。つまり、プライバシーを保護できない可能性を“ゼロ”にできた。
だが実際に、モバイル空間統計に差分プライバシーを適用するとなると簡単ではなかった。
課題の1つは、データの有用性だ。モバイル空間統計は日本全国を500mメッシュ、都心や政令指定都市の市街地については250mメッシュで区切り、メッシュ毎の人口を推計している。単純な方法でノイズを加えれば、人口がマイナスのメッシュが出現したり、日本全国の人口が実態より増えてしまうなど、データの有用性が低下する。
もう1つは、計算量の問題だった。モバイル空間統計が用いるのは、まさにビッグデータ。負荷の重い計算方法では、リアルタイム提供は到底実現できない。
突破口を模索するなか、寺田はある論文を探し当てた。その論文では、こうした課題の解決にウェーブレット変換が有効であると説明されていた。
ただ、すぐ試してみるも、単純にウェーブレット変換を適用するだけでは、十分には解決できなかった。
差分プライバシーとウェーブレット変換について猛勉強しながら、札幌の元上司を訪ねる日々が始まった。
生涯忘れられない悔しい経験寺田は若手時代、生涯忘れられない悔しい思いをしたことがある。
NTT研究所に所属していた2000年前後のことだ。寺田は電子チケットや電子決済の研究に没頭し、国際的に高い評価を受けた。インターネット技術の国際標準を策定するIETFでも、寺田の研究成果が3つのRFC(標準技術仕様)として採択された。
だが、電子チケットや電子決済が広く普及した現在、人々が使っているのは寺田の技術ではない。寺田の研究が実用化され、世の中で使われることは結局なかった。
「正直、今でも私の技術のほうが優れていたと思っています」。そう残念がる寺田だが、長い月日が流れ、今ではライバル技術に勝てなかった理由もしっかり理解している。
「あの頃は、トータルでの勝負だということが分かっていませんでした。どれだけ尖った優れた技術であっても、周りが付いてきてくれなければ、うまくいきません。関連技術の状況だったり、利用者にとっての使いやすさも重要です。当時の私は、勝負する土俵を間違えていたのです」
あのときの失敗は繰り返さない――。
リアルタイム化を実現すれば、モバイル空間統計の可能性を一気に広げることができる。しかし、そのためにはプライバシーの確実な保護も含めたトータルで、社会への有用性を確保しなければならない。
「もし、プライバシー保護の観点で微妙なところがあれば、限られた方にしかデータを提供できません」
セキュリティを専門分野の1つにしていた寺田だが、プライバシー保護に関しては「それまで逃げていた」という。プライバシー保護は「ゴールが見えない」。底なしの深さがあるというのが理由だった。差分プライバシーやウェーブレット変換に必要な数学は、寺田がそれまで学んだ数学とは全くの畑違いでもあった。
しかし、もう逃げるわけにはいかない。今度は、勝負する土俵を間違えなかった。
「個人情報保護法のいらない世界」をモバイル空間統計のリアルタイム提供は、2020年に正式にスタートした。
広く社会に貢献する機会は早速訪れた。
新型コロナウイルスの感染が拡大した2020年。不要不急の外出自粛が政府から要請され、全国の主要都市の駅周辺や繁華街などの人出の把握が重要になった。これに使われているのが、モバイル空間統計のリアルタイムデータである。テレビなどで目にしたことがある人も多いだろう。
モバイル空間統計のリアルタイム活用の真骨頂は、AIとの組み合わせである。寺田が開発をリードしたのは「AI渋滞予知」だ。約10時間先までの渋滞を予測できる。
「実は、差分プライバシーに使う数学と、機械学習に使う数学には共通点が多くあります。機械学習は完全に門外漢だった私がAI渋滞予知を開発できたのは、差分プライバシーに一生懸命取り組んだ“御利益”かもしれません」
モバイル空間統計とAIを掛け合わせた新サービスの提供が今後も期待される。
NEXCO東日本とNTTドコモによる「高速道路AI渋滞予知」の仕組み。
NTTドコモのモバイル空間統計 リアルタイム版とAI技術、NEXCO東日本が保有する
過去の渋滞実績や交通流に関する知見を掛け合わせ、
お昼時点の人口統計から14時以降の30分ごとの予測所要時間などを配信している(https://www.driveplaza.com/trip/area/kanto/traffic/ai_traffic_prediction.html)
寺田が現在目指しているのは、「個人情報保護法のいらない世界」だという。一般の企業・団体が苦労しながら個人情報を取り扱わなくても、テクノロジーが自然にプライバシーを保護してくれる世界である。
かつてプライバシー保護は「ゴールが見えない」と考えていた寺田。しかし、そのゴールは少しずつ見えてきているようだ。