「全部イチから自分で理解してみたい」
「関わった案件数は莫大に多いです」
粕淵の高い専門性の大きな土台の1つとなっているのが、豊富な現場経験だ。粕淵は新入社員の頃から長年、SE畑を歩んできた。また、ネットワーク、サーバー、アプリケーション、セキュリティとほぼ全領域で経験を積んできたのも特徴である。
しかも、「エンジニアとして、全部イチから自分で理解してみたい、というところが昔からあった」という粕淵は、通常であればベンダーに外注するような仕事も自分でやるようにしていた。
例えば、アジアの4拠点をインターネットVPNで接続するネットワークの構築案件。現地のベンダーとのコミュニケーション不足もあり、接続は失敗。普通ならトラブルシューティングをベンダーに任せるところであるが、粕淵は自らコマンドを実行し、解決につなげた。とはいえ、トラブル解消には非常に時間がかかった。
その失敗と苦労の果実として生まれたのが、粕淵のヒット本の1つ『NetScreen/SSG設定ガイド』(2008年刊行、技術評論社)だ。ファイアウォールの世界に革新をもたらしたNetScreen/SSGの解説書である。NetScreen/SSGの導入案件を多くこなすことで得たノウハウを、同僚たちと一緒に1冊の本にまとめた。
2冊目の著書『NetScreen/SSG設定ガイド』はコンピューター専門書の売上ランキング上位に(書店の許可を得て撮影)
さらに、現場だけでも飽き足らない。資格取得を1つの目標としながら、体系的な知識の勉強にも励んだ。その結果としての50にのぼる資格数である。最近は、東京大学大学院(博士課程)で、セキュリティインシデントの研究にも取り組んでいる。
積極的にアピールするワケ
約10年前に、粕淵はセキュリティ専門チームに移った。今の仕事は大きく3つある。
まずは、顧客支援だ。セキュリティ製品の導入の支援や、セキュリティインシデントが発生した場合などに、対応策等のアドバイスをするために顧客の元へと向かう。
2つめは、社内の人材育成である。粕淵が所属する法人営業の組織はSEだけでも2300人規模の大所帯。そのセキュリティ研修を担当している。
そして3つめは社外活動だ。総合通信局、警察など様々なところから依頼され、セキュリティに関する講演やイベントを行っているほか、大学などでも教鞭も執る。
左は近畿大学、右は愛知総合工科高等学校専攻科で授業を行う粕淵
粕淵は書籍の執筆をはじめ、雑誌やWebメディアでの連載等、早くから社外活動に積極的に取り組んできた。以前はこうした活動は、あくまで“自分のため”だったが、今は“会社のため”も兼ねている。
「iPS細胞で有名な山中教授がこんな話をしているのを聞いたことがあります。研究はすごく大事だけど、それと同じくらい研究成果のPRが大事だと。さもないと、どれだけ力があっても埋もれてしまうと言うのです。山中教授くらい凄い研究をされている方でも、そうなのですから、自分なんかは外にアピールしなければ絶対に良い仕事がやって来ません」
「単なるインフラ会社でしょ。セキュリティに詳しいの?」
粕淵はNTTグループに対して、こうしたイメージを持っている人が少なくないと感じている。NTTグループは、東京2020オリンピック・パラリンピックのセキュリティ対策を担うなど、実際には世界有数のセキュリティ技術を持つが、一般にはほとんど知られていない。
社外活動を通じて、NTT西日本のセキュリティ事業のプレゼンスを向上させることは、粕淵の重要な任務の1つになっている。
粕淵が執筆した書籍、雑誌の一例
関西を代表するセキュリティイベントも最初は…
プレゼンス向上活動の一環として、粕淵らが運営しているのが、先に紹介したセキュリティコミュニティWEST-SECである。セキュリティについての問題を解きながらポイントを競い合う、いわゆるCapture The Flag(CTF)のイベントを開催している。
今では毎回数百人もの申込がある関西最大規模のセキュリティコミュニティへと育ったWEST-SECだが、最初からうまくいったわけではない。粕淵が若いころ、最初に勉強会を開催したときは「3人しか集まらなかった」という。
ただ、「失敗が9割」が信条の粕淵である。新たな挑戦は失敗して当たり前だと考えているから、もちろん何度つまずいても簡単にはへこたれない。好きな言葉は「まぁいいか、それがどうした」、と気にしない。
本の出版についても同様だった。本を出したいと初めて動いたのは大学院時代。数学科だった粕淵は、数学の本を出したかったが叶わなかった。それ以降、実際に本を出すまで、「出版社には凄い数の企画書を送りました」と振り返る。「ダメでもともと」の気持ちで送っているから、たいして落ち込むこともないという。
誰も座っていないイスを狙え
がむしゃらに努力を積み重ねながらキャリアを築いてきた粕淵は、一方で「空席理論」という言葉を口にする。
「誰も座っていないイスを狙え」ということだ。
先に紹介した本もそうである。Ciscoの本は山ほどあれど、NetScreen/SSGの製品の本は存在しなかった。つまり、空席だった。だからこそ、この本の企画は通ると確信した。
WEST-SECも空席を意識することで差別化に成功した。WEST-SECのキャッチフレーズは「8割解けるCTF」。一般的なCTFの出題の難易度は非常に高い。これに対してWEST-SECは、初心者でも楽しめるCTFを目指している。
8割解けるCTF「WEST-SEC」のWebサイト(URL:https://west-sec.com/)
大学院(博士課程)での研究テーマも当然、空席を選んだ。なぜセキュリティに関する意思決定は難しいか、現場ではどのように意思決定がなされてきたかなど、セキュリティインシデント対応をテーマに研究しているという。「多分、僕しか研究している人はいません。他の人も研究しているテーマでは勝てないので、誰もやっていないことをやろうと、このテーマを選びました」
ちなみに大学院での研究は、業務ではなく、完全にプライベートとしての活動。「フレックス制度や有休制度をフル活用して研究活動や学会発表を行っています。上長の理解もあり、自分がやりたいことを120%やれています」と語る。
新しい人事給与制度によって、「給料が少し増えました」と明かす粕淵。「これまでは給料を上げようとすると、管理職を目指すしかありませんでした。新制度により、専門職系のキャリアを目指す人にとって、新しい道が開けたと思います」
今後の目標の1つは、CTFの全国大会の開催だという。2023年12月には近畿総合通信局らと一緒に「学校対抗CTF大会」を開催した。参加者は300人以上と大盛況。全国どこからでも参加できるイベントだが、2023年度の場合、リアル会場は大阪だけだった。今後は、甲子園で開催される高校野球の全国大会のように、全国区イベントへと発展させていくのが夢だ。
全部イチから自分でやるのが好きな粕淵だが、最近では「自分のやり方を真似しないで」、そう言って若手に任せることも増えてきた。
「楽しいんですよ。彼らが、自分には無い発想で、全く違うことをやったりするのが、凄く斬新で」
若手に向けては、こうもアドバイスする。「PRが大事という話をしましたが、最後はやっぱり中身です。偉そうなことを言いますが、中身が良くなければ、いくらPRしても何も始まりません」
自分のため、そして社会の役にも立つ空席を見つけ、そこに座るためのチャレンジと努力をあきらめずに続けてほしい――。そんなメッセージに聞こえた。