フィジカルAI時代の安全性
――3つめの量子情報通信では、何を目指しますか。
大野 本格的な量子コンピューターが到来すれば、現在使われている暗号の一部は解かれてしまう恐れがあります。そこで、破られない暗号通信への需要はますます高まるでしょう。中心となるのが、暗号の「鍵」を安全に届ける量子鍵配送(QKD)です。NICTは2010年から「東京QKDネットワーク」を構築・運用しており、世界でも有数の長期運用実績があります。今後はこれを東名阪へと広げ、より長距離をつなぐネットワークとして試験運用していく段階に入ります。
QKDネットワークは世界各国でも実証が進んでいます。これは、社会実装の一つのフェーズとしてのアウトカムが、すでに海外で見え始めているとも言えます。東京QKDで積み上げてきた技術を活用しようとする国々では、東芝やNECといった、我々が一緒に開発してきた仲間の製品が使われています。QKDの延長として、その鍵を使った秘匿性の極めて高いデータセンターのような仕組みも構想しています。
――量子コンピューター対策では、耐量子計算機暗号(PQC)も注目されています。QKDとの関係はどうですか。
大野 PQCは、解読の計算困難性を安全性の根拠とする暗号です。大まかに言えば、我々が現在使っている、因数分解が難しいことなどに依存する公開鍵暗号と同じドメインにあり、現在知られているアルゴリズムでは量子コンピューターでも解読が格段に難しい問題を使うものと言えます。
一方、QKDの方は、絶対に破られない、秘匿性の極限が特徴です。この量子鍵配送を含めた量子技術を、PQCとどのように組み合わせていくのかは、これから社会が選択していくことになりますが、その選択の場面で、日本としての競争力、自律性と不可欠性をどう発揮するのかが問われます。
――4つめのサイバーセキュリティは、生成AIの登場で大きく様相が変わりそうです。
大野 脆弱性を見つける速さも、それを悪用する速さも、生成AIによって劇的に上がりました。だから、見つけた穴をふさぐパッチも、同じ速さで当てなければなりません。このサイクルを国内で回せるかが、自律性に直結します。どの国も同じですが、正直、日本の備えが十分かと言えば、安心できる状況ではありません。日本にとっての制約は、独自の大規模AIモデル、いわゆるフロンティアモデルを持たないことです。サイバーセキュリティをきちんとデプロイするには、やはり米国との協力が欠かせません。
そこで、ワシントンDCのNICT 北米連携センターにAIセキュリティの連携拠点を置き、研究者を配置して、グーグルなどフロンティアモデルを持つ海外企業とも連携を進めています。
――フィジカルAIの時代、通信の安全性も一段と重要になりますね。
大野 まさにそこが大切です。フィジカルAIで忘れられがちなのは、通信があってこそ真価を発揮する、という点です。完全に単独で動くスタンドアローンの機器もありますが、多くはつながって初めて価値を持ちます。だからこそ、まず通信するインターフェースが安全でなければならず、さもなければ工場や電力系統を丸ごと止められるリスクもあります。「サイバーフィジカルシステム(CPS)」という概念は以前から語られてきましたが、その安全性の担保が真剣に扱われてきたかというと、必ずしもそうではありません。安定して安全・安心な情報通信基盤があって初めて、フィジカルAIは成り立ちます。
NICTを価値創造の「現場」に
――これら4つの戦略領域などの研究開発を通して社会貢献していくため、NICTを「イノベーションプラットフォーム」へと発展させる方針も掲げています。
大野 これまでのNICTは、技術を開発して外部にお渡しし、その先で社会実装していただくやり方が中心でした。しかし、それでは価値が生まれるまでに時間がかかりすぎます。そうした時間は我々にはもうありませんから、NICTがいわゆる「オフキャンパス」となり、大学や企業などと一緒に研究開発する形を増やしていきます。
つまり、NICT自身が社会価値創造の「現場」になります。これが「プラットフォーム」という言葉に込めた意味です。NICTは研究開発に加えて、日本標準時や宇宙天気予報といった公共サービスの提供、さらに研究資金の提供(ファンディング)という3つの機能を併せ持っています。この3つを一体として、社会価値創造のプラットフォームにしていきます。
公共サービスも、安全保障と無縁ではありません。例えば日本標準時を、いかに正確に、途切れさせずに配るか。マイクロ秒単位で高頻度な金融取引が動く時代に、わずかな進みや遅れでも大きな問題になり得ます。また、GPSによる時刻同期は電波に依存するため、ジャミングやなりすましのリスクがあります。安全保障の観点から、公共サービスの冗長性を強化する研究開発にも力を入れていきます。
――NICTを社会価値創造の「現場」に変革していくうえで重視していることは何ですか。
大野 大切にしたいのは、一つひとつの研究開発を、社会価値にどうつなぐかを常に意識する「アーキテクト視点」です。個々のテーマは、つなぎ方次第で初めて社会的価値を生みます。研究開発を「点で終わらせない」という姿勢を、NICTの内部だけでなく、共に取り組む企業や大学にも求めていきたいと思っています。
NICTの技術は、いわば“原石の山”です。それをどう磨いて外へ出すか。外に出すことに慣れた方々との対話や資金循環を深めていけば、もっと多くの磨かれた原石が日本だけでなく世界へ飛び立てると考えています。
グローバルな目配りも欠かせません。ワシントンDC、パリ、バンコクに拠点を持ち、規制や技術開発の動向を現場でリアルタイムに見ることを重視しています。
特に欧州では、規制というツールが技術開発にどう反映されるかを現場で見る必要があります。また、東南アジアは重要な市場で、共創を進める仲間でもあり、各国の言語を大切にしたモデル開発や、通信基盤の強靭化について話し合っています。











